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【追悼】確執報道もあった星野仙一と落合博満 監督としての共通点

  • 2018/01/07(日) 21:18:01

■確執報道もあった星野仙一と落合博満 監督としての共通点は
1/7(日) 16:00配信NEWS ポストセブン

 1月4日、膵臓がんで亡くなった星野仙一氏(享年70)の監督人生を語る時、大打者・落合博満の存在は欠かせない。1986年オフ、中日・星野監督の誕生直後に1対4の世紀の大トレードでロッテから2年連続三冠王の落合が移籍。1985、1986年と2年連続5位に終わっていた中日だったが、1988年には6年ぶりとなる優勝。星野と落合は優勝請負人の役割を果たした。

 だが、学生時代に上級生のしごきに嫌気が差していたという落合と、時に鉄拳制裁を食らわせながらも選手を育てていた星野氏の野球観が一致していたとは言い難く、スポーツ紙などで度々確執が報じられていた。

 1988年を含め、中日ドラゴンズは球団創設以来、9度のリーグ優勝を果たしている。そのうち2度は星野氏(1988年、1999年)、4度は落合氏(2004年、2006年、2010年、2011年)であり、2人で3分の2を占めている。星野氏は2003年には阪神を18年ぶりに、2013年には楽天を球団創設初の優勝に導いており、2人ともプロ野球史に残る名将と言って差し支えないだろう。

 一見、馬が合わないように見える2人には、監督としてある共通点があった。1990年代、中日のエースだった今中慎二は自著『中日ドラゴンズ論』で星野監督が落合に怒りを爆発させた場面を見て、仰天したと書いている。1990年5月24日の巨人戦、絶不調に陥っていた落合は2回、セーフティーバントを試みる。まさかの行動に巨人は意表を突かれた格好に。この出塁をキッカケに中日はこの回、2点を奪って逆転した。しかし、試合後のミーティングで星野監督は落合にこう激怒したという。

「なんでバントなんかしたんだ! バントさせるときは俺がサインを出す。勝手にやるな。4番なんだから4番らしい仕事をせぇ。罰金だ!!」

 これを目の当たりにした今中は〈「怒る」星野監督のもとチームが結束していたのは、若手でもベテランでも、もちろんコーチに対してでも特別扱いしなかったことが大きかったと思います〉〈星野監督は筋が通った監督だったと思います〉などと綴っている。野球担当記者が話す。

「この試合は2度の乱闘が起こり、星野監督が巨人の水野雄仁にビンタを喰らわせた有名な試合でもあります。もしかしたら色々な怒りが混ざっていた上での発言かもしれませんが、当時既に日本野球史に残る大打者だった落合を皆の前で叱るのはなかなかできないこと。

 プロ野球の世界は実績が全てという考え方も根強く、監督やコーチでも大選手にはもの申せぬ空気があることは間違いありません。自分の現役時代の実績と比較してしまい、場合によっては遠慮してしまうこともある。

 星野監督は前人未到の3度の三冠王を獲得した落合にも臆することなく、叱咤した。この言動がチームに良い緊張感をもたらしていたことは間違いありません。落合も感じるところがあったのでしょう。これ以降、現役生活でバントを1度も試みていないはずです」

 2004年、中日・落合監督が誕生すると、レギュラーだろうと若手だろうと関係なく、選手を練習で鍛え上げた。

「落合監督の口癖は『俺の成績を超えたら、いくらでもおまえの能書きを聞いてやる』。裏を返せば、『俺の成績も超えられないのに偉そうなことを言うな。能書き垂れる暇があったら練習しろ』ということです。現役時代の圧倒的な実績があったとはいえ、落合監督は誰であろうと特別扱いせず、徹底的に鍛え上げた。それによって、荒木雅博と井端弘和の鉄壁の二遊間が出来上がり、在任8年で4度のリーグ優勝、1度の日本一に繋がったのではないでしょうか」(同前)

 誰も特別扱いしない――。当たり前のようでいて、できないことを遂行したからこそ、星野氏も落合氏も名将になり得たのだろう。

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